待降節を迎えて

 

   堺ブロックチーム 髙畠 政行神父

 

今年ももう早や12月に入り、(はな)やいだ(まち)では美しいイルミネーションが点灯(てんとう)され、行き()人びとの心にクリスマスの訪れを知らせてくれています。クリスマスはキリスト教の信仰の有無を問わず、誰にとっても懐かしい(きょう)(しゅう)と、なにかしらの希望の光を与えてくれるものではないでしょうか。

 

私にとって60数回目の待降節を迎えました。幼稚園の頃、待降節になると各教室にはマリア像とヨゼフ像とが用意され、その二人の間には()()(おけ)が置かれました。良い事をすると麦わらを一本ずつ入れて、クリスマスの時までにフカフカで温かい飼い葉桶をみんなで作り、生まれたばかりのイエス様にゆったりと寝てもらうというものでした。私たちは毎日、お母さんのお手伝いをしたり、お友だちと仲良く遊んだり、きれいな言葉を選んで使ったりして、飼い葉桶を麦わらでいっぱいにする事を楽しみにして頑張ったものです。

 

中学生になって小神学校に入ると毎晩、大沈黙の内に御聖堂に集まり行なう「寝る前の祈り」の最後には、グレゴリオ聖歌が歌われたのですが、待降節には必ずといってVeni, veni Emmanuel (来たれ 来たれ インマヌエル)か、Rorate caeli (天よ (つゆ)(したた)らせ)を歌っていました。今もこの歌を口ずさむ(ごと)に、一日という日が過ぎ去って行く寂しさと、クリスマスには(ようや)家に帰れるという期待が、複雑に入り混じった想い歌っていたこと思い出すのです。

 

さて、待降節の第二・第三主日の福音には、毎年必ず洗礼者ヨハネが登場して来ます。

 

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」(ルカ3;4~6)と、ヨハネは荒れ野で叫ぶのです。

 

 『待降節』。それは、私たちが神に向かう心を整える期間です。それを洗礼者ヨハネは道に置き換えました。私は胎児と母親とをつなぐ臍帯(さいたい)(へその())のイメージを描いています。母親の(たい)に生きる胎児が、母親からへその緒を通して栄養や酸素が供給されすくすくと成長するように、神の(たい)に生きる私たちも、信仰というへその緒を通して神からの恵みを受け、いきいきと歓びを持って生きることが出来るのです。待降節を迎えて、祈りと愛のわざ通して信仰というへその緒をまっすぐにして、キリストの誕生を待ち望みたいと思います。