洗 足 の イ エ ス              
                          金剛地区 信徒 吉田弘

 最後の晩餐を始める前に、主イエスが弟子たちの足をタオルで洗う印象的な場面があります。何度読み返したことでしょうか。当時主人の足を洗うのは奴隷や下僕の卑しい行為とされていました。それを神の子であるイエスが弟子一人一人の足を洗うのですから、さぞ弟子たちは戸惑い、驚いたことでしょう。ペトロは動転し、恐縮のあまり、「私の足など、決してあらわないでください」と哀願しますと、イエスは、「もし私があなたを洗わないなら、あなたはわたしとなんのかかわりもないことになる」と答えられました。そしてイエスは弟子たちの足を洗い終わって、「私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない」と仰せになられました。
このくだりを数か月前に読んだとき、私は激しい衝撃を受けました。というのは、このイエスの言葉と行いは、これまでの私の生き方や価値観と真逆なものだったからです。私の70余年は、今思えば、思い上がりと傲慢の人生であったと言えます。名誉や名声が心地よく聞こえ、形あるものばかりを追っかけていたように思います。
  数年前、大病をやり死線をさまよう中で自分の人生を振り返る機会を得ました。間違った人生を送ってしまったのではないかという取り返しのつかない想いがひしひしと挫折感や失望感となって体内を満たしていくようでした。戸惑いながら何が間違っていたのか反芻する日々でもありました。それだけに、イエスの言葉は新鮮で胸を打ちました。その言葉と行いに真実の人間の生き方があると思えたからです。死を目前にしてイエスが伝えようとされたことは、人間関係における最も重要なものとして、愛から出る謙遜やへりくだりの姿勢を自ら行動によって示されたことにあります。それは、どんな「ちっぽけな」人に対しても心底敬い、心底愛するようにと行動で教えられたのだと思います。